「老いてますます盛ん、加齢を華麗に元気で暮らす」
人の一生の中で、20歳までを幼年期、40歳までを中年期、60歳までを壮年期として、60歳で生まれた時と同じ干支に戻る還暦という人生の大きな節目を迎えます。これは還暦までしか寿命が無いのではなく、生まれて来て男女に分かれて結婚をして子供を作り、子供を育てて、子供が成長して結婚して孫が出来て、世代が交替して、そうした人生の歴史の中で還暦(60歳)を迎えます。この生れてから60歳までを「陽の時代」と呼び、華やかに頑張って働いて一つの時代を築き上げてきました。そしてこれからの60歳以降は「陰の時代」と呼び、熟成された、時代を築き上げてきた完成期を迎えるようになります。「陽の時代」が60年「陰の時代」が60年と二つ合わせて120年になります。人の寿命は二千年前の漢の時代の傷寒論に「百年の寿命をそなえ」と書かれてある様に、大病をしたり身体に無理なことをさせたりせずに養生して大切に使えば百年以上の長生きが出来ますと書かれております。これは現代にも通じることで「予防と養生と再病阻止」をすることで長命は充分可能になってきました。あとは、この「陰の時代」になった人はどのような考え方・価値観・生活習慣が良いのかという事が大切になってきます。老年期の生き方として参考になることが三千年前の周の時代の「易経」に書かれております。それは易経の「離為火 九三」の卦の爻辭に書かれている言葉です。離為火 九三。
日昃(ひかたむ)くの難(なん)。缶(ほとぎ)を鼓(う)ちて歌わず。即ち大耋(たいてつ)の嗟(なげ)きあり。凶(きょう)。彖傅(たんでん)に曰(いわ)く。日昃(ひかたむ)くの難(なん)は、何(なん)ぞ久(ひさし)かるべけんや。
これは、太陽の運行でいへば、一日の内の日暮れであり、人生でいへば一代の終わるところ「老衰の人」です。それを「日昃(ひかたむ)くの難(なん)」といい「大耋(たいてつ)」といったもので、昃くという字は日に仄か(ほのか)とを合わせたもので日光の仄かになるという意味で日暮れの事であり、耋(てつ)はまた老と至とを合わせて老いの至りという意味を表し八十歳を耋(てつ)と称します。そこで、人生の夕暮れが迫って、若さを取り戻そうと焦るのは、沈む太陽を中天(ちゅうてん)に引き返させようとするもので、望んで能(かな)ふることではありません。そうかと云って老いの身を嗟(なげ)いてばかり居るのは、日の沈んでゆくという、どうにもならない自然の約束を徒(いたずら)に悲しむようなものだと云わねばなりません。それよりは老い衰えるのも天命であることを悟(さと)って安(やす)んずるところを持ち、酒を呑めば、その缶(陶器の徳利)を鼓(う)って、楽しむような楽天性を持つことが望ましいが、その境地に至ることは仲々にむずかしいというのが「缶(かん)を鼓(う)ちて歌(うた)はず、即ち大耋(たいてつ)の嗟(なげ)きあり、凶(きょう)」とある爻辭(こうじ)の意味です。
「日昃之難」とは日が西に傾いて暮れかかって居る時に附いて居るのである。人が老年になったのである。日が西に傾いて薄暗くなったのである。人の智慧が暗くなったことにも見える。そうしてあせって居るのである。人は生まれれば必ず死ぬるのである。若い元気のよい時もあるけれども、長生きをすれば必ず老人になるのである。老人になれば老人として、天命を楽しんで、老人相應に為すべき事を為すべきであるが、此の老人は「中庸の徳」を持って居らぬので、あせる気持ちがあり、落ちついて居ないのである。もっとも「缶を鼓して歌う」ということは、有頂天になったり、或は自棄糞(やけくそ)になって歌い騒ぐという意味ではなく「古(いにし)え宴会に之を鼓(し)して歌を節(せつ)す」と記されているように、缶を鼓ちながら歌の拍子を取ることなので、拍子外れとならず、むしろ落ち着いた歌い振りを示すために「鼓す」と添えられているわけであります。そのように天を楽しみ命(めい)に委(ゆだ)ねるような境地は、天命に麗(つ)き従って、道を失わないという一つの離の道でありますが、陽を以て陽位に居る此の爻には其れが出来ず、徒に燃えさかることを欲して、それがかなわぬ老いを嗟(なげ)く有様なので、凶とあるわけであります。これなどは易の現実肯定の態度のよく表れているところです。
(加藤 大岳 易学大講座第五巻 離為火九三 より)
このように「老いを嗟いてはダメ、ヤケになって浮かれてもダメ、天命を楽しんで中庸の徳を持ち暮らしなさい」という事です。これはなかなか難しい事で、「何のために生きるのか、これから何を為すのか」云った極めて哲学的な問答ですが、周囲を見渡せば、イキイキと元気いっぱいに暮らしている人もおります。生きがいを持つ手段として「旅行や絵画などの趣味を持つ」「交差点の立哨当番ボランティアなどで社会に役に立っている」、「讃岐うどんの塩梅にお婆さんが若い人に自分の経験を教えている」などや、「日記を書く」「写経を書く」「絵手紙を書く」「名作を朗読する」「花を育てる」「生け花・書道・音楽など習いものを始める」「おしゃれをして美術館や史跡巡りをする」
「食事を楽しむ・お茶を楽しむ・果物を楽しむ」「季節の移ろいを愛でる、花見・月見」など風流を愛でる風雅が心を豊かにしてくれます。
若者は体も元気で力も有ります。若者は「愛」「正義」「勇気」「力」で困難に立ち向かいます。
一方老人は洋の東西の昔話などにあるように「智恵」と「経験」で困難を切り抜けます。悪者に襲われそうになった時、お婆さんが咄嗟の嘘で悪者をだまして悪者をやっつけてしまいます。力では到底かなわない状況でも「智恵」と「経験」でこの危機的状況を回避してしまいます。これが「おばあちゃんの知恵」です。このように体力的な弱さや「愛・正義・勇気・力」などの青チョロイ事も「智恵」と「経験」でカバーして行きます。これが老いてからの「老人力」と云うものです。
老人が社会から必要とされる力(マンパワー)が「老人力」です。60歳を過ぎて「陰の時代」に突入した人は「老人力」に磨きをかけて「智恵」と「経験」で勝負して下さい。
しかし60歳まで人生を無事に過ごしてきた人達も、がむしゃらに頑張ってきた人も身体の中の「気・血・精」を目一杯使い切ってしまいました。60歳までは、「気・血・精」は自力で作る事が出来ましたが、60歳の「陰の時代」に入ってからは自然の漢方薬「薬食同源」を上手に取り入れて補う必要が出てきました。
クヨクヨしたり迷ったりする人には「キョーレオピンと胃腸薬G・L」を、耳が遠く目がかすむという人には「レオピンロイヤル」を、足腰が弱ってきて低体温になり夜中に目が覚める人には腎の命門の火を補う「霊鹿参」を、不眠・イライラ・ヒステリーなどの気の滞りには麝香製剤の「感応丸気」を、どうき・息切れ、など心肺機能の衰えにはセンソ製剤の「律鼓心」を、血の滞りや血に熱を持つ、「脳・心臓・肝臓」疲れが溜まる・疲れが身体に出る・疲れが外へ抜けるには、牛黄製剤の「霊黄参」を、足腰が弱る、腎が冷える、など精(生きる力)が弱ってきた人には「冬虫夏草」を、物忘れし易い頭の切れが弱いなどの人には「能活精」など様々な漢方薬で対応して行きます。
50才までは「無病息災」60才までは「一病息災」70才からは「多病息災」と云う考え方で、それでも病気が拡大しない様に漢方で手当てして行きます。今日一日を大切に無事に過ごすことが出来て、明日もまた元気で健康に過すことが出来ますよう、ご祈念申し上げます。
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